Digital Exhibition
デジタル展示「平賀譲文書」
ふね遺産『平賀譲文書』― 学童期
尋常中学校・第一高等学校・東京帝国大学時代の平賀譲を、日記・講義録・書翰・卒業証書・写真など 41 点で辿る企画展示です。文部科学省『日本船舶海洋工学会ふね遺産』認定(2017年)に伴い柏図書館で行った第11回企画展示のデジタル版。
全 35 点 ・ 4 セクション
序章
全 1 点- (画像なし)
ふね遺産表彰盾
詳細ページは未公開です
尋常中学校
全 17 点
備忘録
- 寸法 (mm)
- 190×125
- 資料 ID
90190101
京橋の泰明小学校を卒業した平賀は、明治23年4月11日に築地の東京府尋常中学校を受験し、1番で合格した。なお、尋常中学校の修業年限は5年である。

懐中日記
- 年月日
- 明治25(1892)年
- 寸法 (mm)
- 130×90
- 資料 ID
90010101
明治25年4月6日に東京府知事富田鉄之助臨席の下に厚生館で行われた免状授与式で平賀は、二年級及第証書および操行学業優等二等賞として「ユニオン第四読本」と組長勉励賞として「ロヒンソンクルソー」の原書を授与された。なお、平賀の第2組は組長を生徒の選挙で選んでいる。

懐中日記
- 年月日
- 明治27(1894)年
- 寸法 (mm)
- 128×89
- 資料 ID
90030101
海軍兵学校を志し、明治27年8月4日に築地の海軍大学校で体格検査を受けた平賀は日記にこう記す。「第一ニ眼科ノ試験ヲ受ケシ所不幸ニシテ不合格ナリキ、再試験セラレテ復タ不合格、遂ニ全ク失敗セリ、残念・・・・・・・(試験官大軍医大監)、眼ノ検査ハ視力ノミナリキ(アルハベット、イロハ、カタカナ、等)」。6月4日の愛宕下の東京病院での診断は「未ダ近眼鏡ヲ用フルノ用ナシ」であったから、不合格は平賀にとって受け入れがたかったろう。視力回復のため平賀は神田駿河台の眼科医の泰斗井上達也の門をたたくが、結果ははかばかしくなかった。

懐中日記
- 年月日
- 明治26(1893)年
- 寸法 (mm)
- 127×85
- 資料 ID
90020101
細かくつけられた毎月の会計は、平賀の几帳面な性格と金銭感覚をよく物語っている。10月1日購入の「スヰトン万国史」は、東京大学予備門で釈解・史学の教科書として用いられたSwinton, William. Outlines of World's Historyで、翻訳書(『萬國史』)ではないだろう。なお、明治19年3月の帝国大学令により東京大学は帝国大学と改称され、同年4月の中学校令により東京大学予備門は第一高等中学校と改称された。





大日本国史 勝浦鞆雄先生口述筆記
- 年月日
- 明治24(1891)年1月
- 寸法 (mm)
- 185×241
- 資料 ID
95090101
東京府尋常中学校1年の時の日本史の講義録。明治23年に校長に就任した勝浦鞆雄は、この中学校を第一高等学校への進学校に育て上げた。教科書として『皇国史要』(吉川半七、明治28年)などがある。



東京府尋常中学4年生の平賀
- 年月日
- 明治26(1893)年7月25日
- 寸法 (mm)
- 104×65
- 資料 ID
91160101
明治26年の懐中日記の7月25日条に「隈川・阿部・中川氏卜江木二於テ写影セリ」とある。右から平賀、阿部光隆、中川淺之助、隈川豊。江木は新橋の江木写真館支店。この日、平賀は学校で成績表を受け取り、学年で5番(乙組では4番)と知って日記に「残念也」と記しているが、最終的な席次は9番で、2等賞として「文章規範ヘスチング」正続をもらった。

東京府尋常中学5年生の平賀
- 年月日
- 明治27(1894)年7月10日
- 寸法 (mm)
- 125×82
- 資料 ID
91050101
明治27年の懐中日記の7月10日条には「朋友森本啓太郎・中村操両氏と撮影ス(江木二於テ)」と記されている。右から平賀、中村、森本。江木は新橋の江木写真館支店、写真右下のT.NARITAは支店開業の明治24年から40年まで写真技師として活躍した成田常吉のこと。日記の7月の会計をみると、10日の写真の「割当」代は15銭なので、3人で写真代を割り勘にしたことがわかる。

東京府尋常中学校時代の自在画
- 寸法 (mm)
- 186×285
- 資料 ID
100000101
尋常中学校では5年間、図画として自在画法と用器画法を教えた。自在画とは製図用具を用いずに描く絵をいう。本図は2年生の時に平賀が課題として画いた自在画。

東京府尋常中学校の操行学業優等賞証書
- 年月日
- 明治25-27(1892-1894)年
- 寸法 (mm)
- 227×320
- 資料 ID
110170102
賞は原書である。「ユニオン第四読本」は東京大学予備門の読み方の教科書Sanders, C. W.. Sander's Union Forth Reader. である。

東京府尋常中学校の修業証書・卒業証書
- 年月日
- 明治24-27(1891-1894)年
- 寸法 (mm)
- 250×320
- 資料 ID
110200101
明治28年3月31日に平賀は東京府尋常中学校を74人中8番で卒業した。卒業・修業式には府知事三浦安が臨席し、式終了後、来賓の前で卒業生は武装して中隊運動を行った。なお、今日と違って、当時は進級の度に免状授与式が開かれ、修業証が交付された。

日記
- 年月日
- 明治28(1895)年
- 寸法 (mm)
- 125×88
- 資料 ID
90040101
6月13日に胃癌で父を亡くした平賀は、準備期間わずか数日で第一高等学校の入学試験に臨み、工科39人中10番の成績で合格した。7月10日の日記には「此時ノ嬉サ真ニ比センモノナシ、只思ヒ起スハ故人ヲ慕フノ追想ノミ」と記されている。
第一高等学校
全 9 点
吾家の歴史
- 年月日
- 明治29(1896)年
- 寸法 (mm)
- 154×127
- 資料 ID
90050101
大学進学先を採鉱か、電気か、造船かで迷っていた平賀は明治29年1月9日の掲示で進学先提出の締切が月末と知り、海軍士官の兄と海軍主計官の義兄満喜裕次郎のすすめで21日に造船に決めた。日記には「造船術ヲ修ムルニ決ス、予未ダ目的ヲ定メズ、大ニ迷ヒテ或ハ電気、或ハ造船、或ハ採鉱、其取捨ニ苦ミ煩労セルモ、家兄ノ御意志モアリ、満喜兄上ニモ亦御同意ニモアリ、遂ニ造船ニ定メム、嗚呼匹夫ノ志猶奮フ可カラズ、況ヤ予ハ茲ニ之ヲ決ス、豈中道挫折、焉ゾ家名ヲ恥カシメンヤ、茲ニ謹書、之ヲ誓フ」と記されている。

Composition
- 寸法 (mm)
- 200×127
- 資料 ID
100250101
第一高等学校1年の時の英作文の講義録。教えたのは英国人W. D. コックスで、明治9年11月に明治政府の招きで来日、駒場農学校を皮切りに東京大学予備門、第一高等中学校、第一高等学校(明治27年6月の高等学校令により第一高等中学校を改称)で教鞭をとり、在職中の明治38年6月に逝去した。教科書として The principles of rhetoric and English composition for Japanese students などがある。

第一高等学校寮で勉学中の平賀
- 寸法 (mm)
- 89×60
- 資料 ID
91480101
3年間の寮幕らしで平賀が打ちこんだのは、勉学だけではなかった。柔道もそうである。明治29年の日記に貼られた「丙申寒稽古出席表於第一高等学校柔道部」をみると、1月11日から2月9日まで30日間の寒稽古で行った乱捕本数は多い日で10本。少ない日で2本、総計161本を数える。

披書懐古
- 年月日
- 明治28(1895)年10月8日
- 寸法 (mm)
- 245×166
- 資料 ID
100050101
第一高等学校では1年間に生徒に即席作文を10回、宿題作文を3回課していた。「披書懐古」は10月1日の宿題。明治29年の日記によると、即席の題は2月が「鉄道」(1月の課題を2月に延期)、3月が「地球ノ図ニ題ス」、4月が「春ノ暮」、5月が「職業」、宿題の題は2月が「電気」、5月が「蓄音器」である。

電気
- 年月日
- 明治29(1896)年3月2日
- 寸法 (mm)
- 245×166
- 資料 ID
100040101
明治29年2月4日に出された作文の宿題「電気」に平賀が取りかかったのは3月1日で、翌日の夜中の1時30分にようやく脱稿、提出した。この作文を読めば、平賀が大学進学先の一つに電気を選んだ理由がよくわかる。

第一高等学校時代の自在画
- 寸法 (mm)
- 282×190
- 資料 ID
100070101
第一高等学校工科の1年生と土木・建築・機械・造船志望の3年生は、渡辺文三郎から自在画を学んだ。自在画とは製図用具を用いずに描く絵をいう。本図は3年生の平賀が自在画の課題として描いた本館時計台。なお、第一高等学校は昭和10年に本郷から駒場に移転した。

Locomotive, Antee.
- 年月日
- 明治31(1898)年6月
- 寸法 (mm)
- 445×615
- 資料 ID
97290101
第一高等学校では小島憲之が工科生に図画として2年で投影画法と図法幾何、3年で図法幾何と機械図を教えた。本図は、機械図の課題の一つとして卒業直前の明治31年(1898)6月に平賀がプチの図面集(PETIT, Stanislas. Le Praticien Industriel.)の第41図(MACHINES LOCOMOTIVES)を写したものである。

測量の課題
- 寸法 (mm)
- 303×458
- 資料 ID
97280101
工科志望の学生は3年生で測量を学んだ。最初に授業を担当したのは東京府技師原龍太で、原が東京帝国大学工科大学土木工学科に転じて以後、代々、同学科の助教授が教鞭をとった。平賀を教えたのは服部鹿次郎。本図は『測量図譜』の地図図式を写したものである。

第一高等学校卒業証書
- 年月日
- 明治31(1898)年7月7日
- 寸法 (mm)
- 381×498
- 資料 ID
97110101
明治31年7月7日に倫理講堂で尾崎行雄文部大臣臨席のもとに卒業式が行われた。明治25年12月末の調査によると、998人の卒業の満年齢は平均23歳(20歳115名、21歳159名、22歳199名、23歳219名、24歳145名、25歳79名、26歳41名、27歳22名、28歳10名、29歳7名、30歳2名)であるので、20才卒業の平賀は最速組に属す。
東京帝国大学
全 8 点
備忘録
- 年月日
- 明治31(1898)年
- 寸法 (mm)
- 155×103
- 資料 ID
90070101
明治31年7月8日に東京帝国大学工科大学造船学科に入学した18名のうち、第一高等学校生は平賀をふくむ9名であった。当時、帝国大学としては東京以外には日清戦争の賠償金により明治30年に創設された京都帝国大学があるにすぎず、いずれの大学にも無試験で入学できた。なお、京都帝国大学理工科大学には造船学科は設置されなかった。


辞令
- 年月日
- 明治32(1899)年4月1日
- 寸法 (mm)
- 276×197
- 資料 ID
110210101
平賀は、在学中、海軍から奨学金を支給され、卒業後、任官する海軍造船学生の試験に合格し、明治32年4月1日に海軍造船学生を命じられた。


The Navy of Japan
- 寸法 (mm)
- 97×150
- 資料 ID
95250101
海軍造船学生となった平賀が、内外の著作・雑誌から軍艦・商船・兵器・造船所などに関する数多の記事を摘記したノート。

Schichan Type Torpedo-Boat Broadest Section
- 寸法 (mm)
- 400×491
- 資料 ID
21110601
平賀が卒論のために写した独国シャッヒョウ社製水雷艇の断面図。

東京帝国大学卒業を目前にした平賀
- 年月日
- 明治34(1901)年6月
- 寸法 (mm)
- 187×236
- 資料 ID
91670101
裏面に「明治三十四年六月将二帝国大学造船学科ノ業ヲ卒ラントシテ同窓訣別ノ情ヲ表ス 工科大学造船学科参考室二於テ」と記されている。最前列右端に座るのが平賀、右後ろが原正幹。平賀は原の妹カズと3年後に結婚することになる。

東京帝国大学工科大学卒業証書
- 年月日
- 明治34(1901)年7月10日
- 寸法 (mm)
- 408×504
- 資料 ID
97150101
明治34年7月10日に平賀は東京帝国大学工科大学造船学科を首席で卒業した。3年後に結婚するカズは同期生原正幹の妹。卒業生14名中、5名が海軍に入った。
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